"Study to be quiet"
記憶を頼りに書くのですが、
開高健がウォルトン卿の墓にお参りに行ったところ、
墓石に"Study to be quiet"と書かれていたのだとか(原典は聖書)。
(彼の著書「釣魚大全」の最後の文句でもある)
開高健がウォルトン卿の墓にお参りに行ったところ、
墓石に"Study to be quiet"と書かれていたのだとか(原典は聖書)。
(彼の著書「釣魚大全」の最後の文句でもある)
イギリスの随筆家、伝記作家。
名著の誉れ高い「釣魚大全」を執筆した。(後略)
名著の誉れ高い「釣魚大全」を執筆した。(後略)
Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2003.
私は釣りをやったことはないのだけど、
"study to be quiet"にはうならされ、感心させられ続けている。
私は釣りをやったことはないのだけど、
"study to be quiet"にはうならされ、感心させられ続けている。
「穏やかになることを学べ」と訳すのが普通でしょうけど、
個人的には冠詞を付けて
「静かになるための研究"a study to be quiet"」と、したい気がします。
個人的には冠詞を付けて
「静かになるための研究"a study to be quiet"」と、したい気がします。
私は何でも競馬に結び付けて考える人間だが、
結局のところ、競馬だって"a study to be quiet"なのかも。
結局のところ、競馬だって"a study to be quiet"なのかも。
もちろん、金欲から馬券を買い、大声を出して応援をするのだが、
増えるはずがない事は分かりすぎるほど分かっている。
増えるはずがない事は分かりすぎるほど分かっている。
では何故続けているのかと考えると、
コテンパンに負けた時に怒りの底から湧き上がってくる
静かなる諦観を味わうためではなかろうか?
そんな気がしてならない。
コテンパンに負けた時に怒りの底から湧き上がってくる
静かなる諦観を味わうためではなかろうか?
そんな気がしてならない。
原典の聖書からは逸脱し過ぎた解釈でしょうけどね。
競馬は今まさにクラシックシーズン。
私は今年も、「静かになるための研究」にいそんでいるのである。
私は今年も、「静かになるための研究」にいそんでいるのである。
※昨日、「沈黙」川柳を羅列しました。
あれらを作ったのは、本記事内容がきっかけでした。
都合で記事を出すのが前後してしまい、申し訳ないです。
あれらを作ったのは、本記事内容がきっかけでした。
都合で記事を出すのが前後してしまい、申し訳ないです。