鳥柴の木



柳田国男「故郷七十年」を読んだ。

再読ではあるが、
内容をほとんど覚えてなかったから、
初めて読んだようなものだ。

ずいぶん前、兵庫県福崎町の移設された生家を訪れ、
その直後に読んだのだが、
とりとめのない話題ばかりだと思った記憶はある。

今回読み直してみて、
「とりとめない」との感想は変わらぬが、
案外楽しめた。

全体ではなく、
部分部分に興味を持てたらいい、
そんな風に私の読書スタイルは変化しているのである。


子供のころ、
私は毎朝、
厨の方から伝わって来るパチパチという木の燃える音と、
それに伴って漂って来る懐かしい匂いとによって
目を覚ますことになっていた。

母が朝飯のかまどの下に、
炭俵の口にあたっていた小枝の束を
少しずつ折っては燃やし付けているのが、
私の枕もとに伝わってくるのであった。


「鳥柴の木」という節の文章である。

後に彼は、これがクロモジであることに気づき、
日本民族の問題」とやらに話が広がっていくのだが、
壮大な想像はともかくとして、
何気ない明治時代の一光景の描写に私は魅かれました。

クロモジなんて、ありふれた木で、
よく知っているつもりであったけど、
燃やした時の香りなんて知らないし、
想像したこともなかった。

身近な自然を理解したいと言う私は、
写真を使って視覚にばかり頼っているのだが、
昔の日本人は五感すべてで、
もしかしたらプラスαの感覚も使って、
木やら自然と接していたんですね。

木を燃やす事にいろいろ問題がある現代だから、
手あたり次第にいろんな木を燃やし、
香りを確かめる訳にはいかないので、
せめて過去の文章などから、
そういう知識を丹念に拾っていきたいと思った次第です。

そして、わざわざ香りのよい木を炭俵に使った、
当時の人の思いにも心を動かされました。
火付きが良ければ、どんな木でもよい、
という考えではなかったのでしょう。

現代のバーベキュー用の着火剤も
めっちゃ便利なんですけどね。

文化とは何なのだろうと、
考えさせてくれる読書なのでした。