ちびまる子ちゃん




ずいぶん前に書いたことの繰り返しになる部分もあるけど、
ご容赦くださいませ。


大学生のころ「ちびまる子ちゃん」第一巻第一話を読んだ時は、
本当に衝撃的で、今でも驚きを新鮮に覚えている。

あの時のことを、もう一度振り返りたい。


小さい時分から、私は本を読むのが好きだった。
当時の子供らしく、アニメもよく見ていた。

何のために、そういったものを読んだり、見たりしていたのか?

それは「未知の世界への憧れ」だったと思う。

動物たちの空想世界を楽しませてくれたドリトル先生
古きロンドンの町とイギリス農村を舞台にしたシャーロック・ホームズ
アルプスの少女ハイジで羊飼いの生活を知り、
未来少年コナンで人類や自然の未来に思いをはせ、
まんが日本昔ばなしで過去の日本に包まれた。

また母が見ているドラマを横で眺めて、
大人の世界を垣間見たり。

そんな風に、過去、未来、遠い外国、空想の世界など、
自分の知らない世界を楽しむのが読書やアニメ鑑賞でした。


しかし、ちびまる子ちゃんは違った。

自分の知っている世界、
知ってたけど忘れかけていた世界が、
そこにあったんです。

さくらももこさんは、私より世代はちょっとだけ上。
子供時分に見てきた世界はほとんど同じ。

目新しいことはなかった代わりに、
「そうそう、そうだったそうだった、同じ同じ!」
という共有する世界を確認しつつ、
読みすすめる快感がありました。


あれから数十年たち、オッサンになった私は、
例えば江戸時代の古川柳を読むとき、
「違うけど同じ、同じだけど違う」
という両方の視点で楽しんでいます。

江戸時代の市井人の作者と、現代の私では、
住んでいる世界が全く異なります。

でも、それでも、同じ人間として、
共感できる部分があるから、
今の時代に鑑賞する価値があるんです。


子供のころは、
「自分と違う」ところが楽しくて仕方なかったのに、
今はどちらかというと、「自分と同じ」部分を探して、
共感を原動力に種々の創作物に相対している。

そのきっかけ、ターニングポイントが、
ちびまる子ちゃん」の第一話だったかなって思ってます。

一学期の終業式終わり、両手と背中に重い荷物を持ち、
ふうふう言いながら帰宅するシーン。
完全に私と同じでした。
忘れようったって、忘れられやしません。


もう一つ、「ちびまる子ちゃん」が教えてくれたのは、
自分たちの時代も、描く価値がある、ということ。

小中高と、国語の教科書には、
疎開など戦時中の子供の生活が書かれた文が多かった。
戦時下という特殊な時代は、
文句なしに書き残す意味がある。

印象的だった井上靖の「しろばんば」のような、
大正時代の田舎の子供生活も、
ほとんど今はなき世界だったし書き残す価値がある。

でも、昭和40~50年代って、どうなん?

真っ只中で体験していた人間としては、
当たり前の世界すぎて、その価値がよく分からなかった。

さくらももこさんが亡くなられ、
日本の様々な世代から、また海外からも、
追悼が寄せられている。

同世代だけでなく世代を超え、
加えて世界の他の文化圏でも愛されたということは、
彼女の世界には普遍的な価値があったということ。

もっと言えば、描く価値のない時代なんて無い。
そうさくらももこさんなら実証してみせたのではないか。

子供のころからスマホを使い、
SNSを操る時代に生まれても、
彼女ほどの天才なら、
それを舞台に世界を楽しませる作品を描いたに違いない。


天国に召された彼女の魂が、
再びこの世に戻ってきて、改めて子供時代を送る。

そうして大人になったら、
また何かとてつもなく面白い創作をされるのではなかろうか。

亡くなったことはとても悲しくて寂しいのだが、
そんな空想もしてしまう訃報一日後なのでした。