ガレキとはいつか無くなる物でなし

まえがき(18日の夜に追加)
この内容の記事ですが、どう書いても、いくら書いても、
書き足りないというか、未完成な気がしてならないのです。
コメント欄を閉じたのは、そのためです。
575を続けてみたのは実験的な意味です。
これでいいのかどうか、よく分かりません。
恐らく、いつまでも未完成のまま、
いろんな方法で書きなおし続けるのだと思います。
しかもそれを試みる事が可能なのは、
家族や親しい友人を一人も亡くさなかったからでしょう。
やはりちょっと。。。後ろめたい気がします。

何かご意見、ご感想などありましたら、
面倒だとは思いますが、ゲストブックなどにでもお入れ下さい。
ほんと申し訳ないですが。



◎「ガレキとは いつか無くなる 物でなし」



17年前の今日。
私は京都にいて、両親兄弟が宝塚にいた。
宝塚市には震度7の地点が多くあり、死者は百数十名。
被害の程度が中途半端だったので、あまり報道されなかった市です。

地震直後に一度だけ電話が繋がって、最低限の安否確認は出来てました。
しかし家の中はメチャメチャらしいし、状況がイマイチ分からない。
テレビ画面は次々と怖ろしい光景を映し、不安は募る。
帰って自分の目で確認しなきゃ、と思った。

京都から宝塚へは、私は阪急電車を使う。
でもあの日の朝、阪急京都線は動いてなかった。


  ◎「再開の 目途は立たぬと 駅の壁」

  ◎「駅員は 待っても無駄と 顔で言う」

  ◎「繋がらぬ 電話は次に 譲り合い」


京都から出られないと何も始まらないので、
内心焦るばかりで午前中を過ごした。
そして「運転再開」とテレビで見たんだったっけ?
この世には、とても素敵な四字熟語がたくさんある。
でも私にとって、一番は「運転再開」かも。


  ◎「行けるかも アドレナリンが 暴れ出す」

  ◎「震度5の 町から7へ 出発だ」


大阪梅田には着いたが、ここからの電車が無い。
大阪から宝塚へは約20km。
歩いたって行けるが、臨時バスが幾つか出ていた。
が、宝塚行きは無い。
迷うことなく、宝塚に隣接する伊丹行きに乗った。
伊丹は私が小学生時代を過ごした町で、土地勘があるから。


  ◎「大阪は 半ばいつもの 顔であり」

  ◎「臨時バス 誰も怒らず 詰め込まれ」

  ◎「十三の 大橋これぞ 大渋滞」

  ◎「ここからが 勝負でござる 県境」

  ◎「出来たての 段差にガタン バスは行く」

  ◎「無理だから ここで降りてと 止まるバス」

  ◎「バス止まる だけどやってる パチンコ屋」

  ◎「パンを買う 前途に食は 無いらしい」

  ◎「日は暮れる すでにこっちは 長期戦」


歩いて、懐かしの阪急伊丹駅に到着したが、
ぺちゃんこに倒壊していた。死者数名。
しかし駅の周辺で全壊してたのは駅舎だけ。
そして何と伊丹市バスが運行していたのである! 奇跡かと思った。
宝塚市に少しでも近付ける路線に乗った。


  ◎「気がつけば バスも道路も 空いている」

  ◎「暗いけど バスの車窓を ただ凝視」

  ◎「しかしまた ここで降りてと 止まるバス」

  ◎「こんな日は 仕方ないよと 運転手」

  ◎「ここは何所 尋ねる前に バスは去り」

  ◎「取り敢えず 川を目指して 歩きだす」

  ◎「真っ白な 顔と時々 すれ違う」

  ◎「水とお茶 全て売り切れ 自販機は」

  ◎「市境の 表示疲れを 吹っ飛ばす」

  ◎「愛しさは いつも通りの 武庫の川」

  ◎「橋は無事 これで帰れる あと少し」

  ◎「親の家 ガスの臭いの 町にあり」

  ◎「街灯が チカチカ消えて ガス恐し」

  ◎「外見は 無事な町見て まず安堵」

  ◎「町静か 長蛇の列は 電話前」


両親や兄弟の事を勝手に書くと叱られるので・・・
被災証明は部分損壊だったかな。
避難生活をする必要もなし。

津波被害と違い、直下型の地震は、
地盤の違い等により、まだら状に被害が出る。
本当の壊滅的被害を私が目にするのは翌日以降。


  ◎「ホッとした 心を隠す 18日」

  ◎「知るほどに 後ろめたいが 無事嬉し」

  ◎「見下ろせば ブルーシートは 凄い奴」

  ◎「何故ここは 助かったかと 歩く町」

  ◎「泣いている 人は外には 出ぬらしい」

  ◎「歩くほど 壊れた町に 目が慣れる」

  ◎「通うのが 嫌だった塾が 残ってる」

  ◎「不便とは 生きているって 事らしい」

  ◎「重たくて 冷たいものが 水である」

  ◎「都市ガスが 復旧をして 春になり」

  ◎「最後まで 直らぬビルは 揉めている」


いろんな事を忘れていました。
あの日をさらに上回る16年後の恐怖によって、
思い出した事が多いです。


  ◎「ガレキとは いつか無くなる 物でなし」


武庫川の河原には、震災後しばらくガレキの山がありました。
いつまであったのか思い出せませんが、
私の感覚ではいつの間にか無くなっていました。
他地域の市町村さんの支援により、処分されたのです。

今、そのガレキの山があった跡では、
週末になると子供たちのラグビー教室が行われていたりして、
とても愛くるしい場所になっています。

あの時、兵庫県を助けてくれた全ての人に、改めて感謝。