私の見たポルノ映画④
さて、「痴漢電車」映画について。
私は何の先入観もなく、それを見始めたのだが、
しばらくして、痴漢電車映画のある問題に気付かされた。
私自身は、解答(つまり作品の内容)を知ってから、
問題に気付いたという順番だったのだが、
ここでは流れ上、まずその問題から語ることにしたい。
電車内の痴漢をテーマにして一時間のストーリーを作るのは、
かなり「苦しい」ことのようだ。
何故なら、痴漢行為には、人間関係が入り込みにくい。
例えば、ポルノ映画でよくある「団地妻」モノの場合、
団地で暇をもてあましている妻のところに、
義父だとか、隣りのオッサンとか、御用聞きがやって来て、
情事が行われる。
そこで、いろんな人間模様が繰り広げられ、話が展開する。
女医モノでも、未亡人下宿モノでも、同様である。
でも「痴漢電車」は苦しい。
触られている女性と、触っている男は、基本的に他人なのだ。
何かの関係があるのだとしたら、つまり知り合いだとしたら、
それは痴漢ではなく、電車内でイチャついている事になる。
(女性は嫌がらないのが基本的前提。夢物語なのである)
映画だから、主演の女優さんが登場する。
痴漢映画だから、彼女は車内で触られる。
もちろん、主演男優も登場し、痴漢をする。
主演女優を、主演男優が触る。
痴漢行為なのだから、そこに人間関係が生じては困るのだが、
生じてくれないと映画としてのストーリーに困る。
二人が意気投合して、ラブホに行ってお楽しみになる、
という展開は当然ありうるのだが、
それだと痴漢行為は話のきっかけでしかなく、
痴漢が主題の「痴漢電車映画」からは外れてしまう。
じゃあ電車内の痴漢映像を延々と映せばいいかというと、
それでは退屈至極である。
マニアでない限り、興味を保てるのは三分以内ではなかろうか。
ストーリーに添って痴漢行為があり、
一時間の映画の中に、適度にその映像が折り込まれるのが理想だ。
でも、そんな事は可能なのだろうか。
私が見た痴漢電車映画は、この問題を完璧に解決しておりました。
そこに私は「感激」したのです。
たぶん次の次が最終回
私は何の先入観もなく、それを見始めたのだが、
しばらくして、痴漢電車映画のある問題に気付かされた。
私自身は、解答(つまり作品の内容)を知ってから、
問題に気付いたという順番だったのだが、
ここでは流れ上、まずその問題から語ることにしたい。
電車内の痴漢をテーマにして一時間のストーリーを作るのは、
かなり「苦しい」ことのようだ。
何故なら、痴漢行為には、人間関係が入り込みにくい。
例えば、ポルノ映画でよくある「団地妻」モノの場合、
団地で暇をもてあましている妻のところに、
義父だとか、隣りのオッサンとか、御用聞きがやって来て、
情事が行われる。
そこで、いろんな人間模様が繰り広げられ、話が展開する。
女医モノでも、未亡人下宿モノでも、同様である。
でも「痴漢電車」は苦しい。
触られている女性と、触っている男は、基本的に他人なのだ。
何かの関係があるのだとしたら、つまり知り合いだとしたら、
それは痴漢ではなく、電車内でイチャついている事になる。
(女性は嫌がらないのが基本的前提。夢物語なのである)
映画だから、主演の女優さんが登場する。
痴漢映画だから、彼女は車内で触られる。
もちろん、主演男優も登場し、痴漢をする。
主演女優を、主演男優が触る。
痴漢行為なのだから、そこに人間関係が生じては困るのだが、
生じてくれないと映画としてのストーリーに困る。
二人が意気投合して、ラブホに行ってお楽しみになる、
という展開は当然ありうるのだが、
それだと痴漢行為は話のきっかけでしかなく、
痴漢が主題の「痴漢電車映画」からは外れてしまう。
じゃあ電車内の痴漢映像を延々と映せばいいかというと、
それでは退屈至極である。
マニアでない限り、興味を保てるのは三分以内ではなかろうか。
ストーリーに添って痴漢行為があり、
一時間の映画の中に、適度にその映像が折り込まれるのが理想だ。
でも、そんな事は可能なのだろうか。
私が見た痴漢電車映画は、この問題を完璧に解決しておりました。
そこに私は「感激」したのです。
たぶん次の次が最終回