羨不足論

宮崎市定「中国における奢侈の変遷:羨不足論」






過去の読書の中で、とっても感動したものの一つがこれです。

学者が書く歴史ってのは難しいばかりでつまらぬ場合が多いけど、
故・宮崎市定氏は例外。

ヘンな話なのだが、小室哲哉氏の逮捕があり、
彼の全盛時の派手な生活ぶりが雑誌に載っているのを見て、
「羨不足論」を読み直したくなったのです。

1939年に講演された内容だが、
岩波文庫中国文明論集」に入っているので入手しやすい。



恐れ多いのですが、そのほんの一部を勝手にご紹介。

中国の歴史は古い。

その中で、最初に贅沢の限りをつくしたのは殷の紂王。
奢侈のあまり国を滅ぼしたというのだが、
何をしたのかというと、いわゆる酒池肉林。
今日の目からみてどこが奢侈なのかというと、
結局、分量が多すぎるというだけ。

たくさん肉を食べ、たくさん酒を飲んだというのだが、
たいしてうまい酒ではなさそうだし、肉もあまり上等のものではない。



その後、時代が進むにつれて、量より質が求められるようになる。

殷の紂王と同じように奢侈で国を滅ぼしたとされる北宋徽宗皇帝らは、
現代の目から見ても美味かったろうなと思える物を食べていたらしい。

それは科学技術の進歩によって石炭の強火を利用できるようになったのと、
社会的な分業によってそれぞれの専門家が登場したからだとか。

彼らの台所は、いろいろな食品を作る部門に分かれていて、
饅頭なら饅頭だけ、吸い物なら吸い物だけ、飯なら飯だけ、となっている。
そしてまた、饅頭部門がさらに分業になっていて、
ネギの専門家がいて、粉の専門家、味噌の専門家などがいる。
彼らがその専門知識を結集させて饅頭を作るのだから、贅沢である。





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この様に、時の権力者や大金持ちが、
どんな贅沢の限りをつくしたのかに注目すると、
その時代の実情や、贅沢をした人の個性が見えてくる。

フィリピンのイメルダ夫人が、
阿呆みたいに靴を持っていたので話題になった事があった。
ブランド物というのは、靴なら靴の専門家たちが、
最高の材料を集めて最高の技術で作るのだろうから、
「質」の贅沢である。

同じ金を使うにしても、
例えば「もっと履き心地がよく、もっと見栄えがする靴を作って」
と、ブランドメーカーに注文をしたのなら、
それは質をさらに追求した贅沢ということになる。

ところがイメルダ夫人は、量に走ってしまったようだ。
結局のところ、殷の紂王レベルだったのかな。

小室哲哉氏も同様である。
色違いのフェラーリを集めて見せびらかしていたのだとか。
それって、三千年前の発想の贅沢なんですよ!

多けりゃいい? でかけりゃいい?
古墳にでも埋まってな!



権力者や金持ちとは別の世界の話になってしまうが、
例えばイチローがバットやスパイクにこだわり、
高橋尚子が靴にこだわり、北島康介が水着にこだわる。
メーカーの専門家たちは、さまざまな素材や構造を試し、
最高のものを作ろうと研究開発に努力をする。

すると、そこからトップアスリート用だけでなく、
我々一般の人間にも役に立つ製品が生まれるなど、広がりが発生する。



北宋徽宗皇帝だって、国が滅びるほどの贅沢をしたが、
そこで培われた知識や美意識は、
現代の中華料理や美術の基礎となって
我々を楽しませたり助けたりしてくれている。

最高の贅沢ってのは、そういうもんじゃないですかね、小室さん?