多田銀銅山
その際、ブログ記事にしようと考えていたのだが、
直後に東日本大震災があり、頭の中から吹っ飛んでおりました。
多田銀銅山は、北摂地域にわたり鉱区が広がる鉱山です。
多田銀銅山で採掘された銅が使用されたと伝えられています。
猪名川町域では、銀山地区(旧銀山町)を中心に栄え、
豊臣政権時には直轄鉱山となり「台所間歩」や「瓢箪間歩」など
秀吉ゆかりの間歩(坑道)が残り盛山の様子がうかがえます。
江戸時代には代官所が設置され、
幕府直轄地となり「銀山三千軒」といわれるほどの賑わいをみせ、
我が国の鉱山史の一端を担いました。
と、パンフレットにあります。
なるほどねえと思ったのですが、
豊臣時代についても、生野銀山とは比べるべくもない量だった、とある。
よくある事なのだが、
史跡などの説明板やパンフの文は、基本的に自慢ベース。
スゴイ、スゴイとあるばかりで、客観的なスゴサはよく分からない。
多田銀銅山について、
最盛期に、日本の銀や銅の産出量の何割くらいだったのか、知りたいよな。
また、ここの特徴は、大坂の近くという立地だろう。
私の足でも、半日もあれば歩いて行ける距離。
例えば、佐渡の金山は、過酷な労働を強制された人が逃げたくても、
逃げられなかったとのエピソードを読んだ記憶がある。
この多田銀銅山の労働者たちは、どうだったのだろう?
金と体力と自由があれば、夕方、多田を抜け出し、大坂で夜遊びし、
朝に帰って来るなんて芸当も不可能ではない距離だ。
佐渡のような孤島でなく、生野よりずっと都市に近いことで、
何か個性的な特徴があったのだとしたら、
それを紹介して欲しい、と考えるのは私だけだろうか。
以上、ちょっとした不満でございました。
本当の所は、とても楽しんできたのです。こういう場所は好き。
坑道の中を歩いたりもできますし。
これだけ町から近くにあるのだから、
小学生の遠足の目的地として有用だろうなあ。
鉱山史や経済史などに触れる機会は、貴重ですぞ。
「悠久の館」という清潔感のある設備も作ってあるのだし、
もっともっと利用されるて然るべしと思いました。