多田銀銅山

イメージ 1

半年近く前、兵庫県猪名川町の多田銀銅山に行って来た。

その際、ブログ記事にしようと考えていたのだが、
直後に東日本大震災があり、頭の中から吹っ飛んでおりました。


  多田銀銅山は、北摂地域にわたり鉱区が広がる鉱山です。
  その歴史は古く、奈良時代東大寺大仏建立の際に、
  多田銀銅山で採掘された銅が使用されたと伝えられています。

  猪名川町域では、銀山地区(旧銀山町)を中心に栄え、
  豊臣政権時には直轄鉱山となり「台所間歩」や「瓢箪間歩」など
  秀吉ゆかりの間歩(坑道)が残り盛山の様子がうかがえます。

  江戸時代には代官所が設置され、
  幕府直轄地となり「銀山三千軒」といわれるほどの賑わいをみせ、
  我が国の鉱山史の一端を担いました。


と、パンフレットにあります。

なるほどねえと思ったのですが、
帰宅後にWikipediaを見ると、奈良時代の「産出は疑わしい」とある。
豊臣時代についても、生野銀山とは比べるべくもない量だった、とある。

よくある事なのだが、
史跡などの説明板やパンフの文は、基本的に自慢ベース。
スゴイ、スゴイとあるばかりで、客観的なスゴサはよく分からない。

多田銀銅山について、
最盛期に、日本の銀や銅の産出量の何割くらいだったのか、知りたいよな。

また、ここの特徴は、大坂の近くという立地だろう。
私の足でも、半日もあれば歩いて行ける距離。
例えば、佐渡の金山は、過酷な労働を強制された人が逃げたくても、
逃げられなかったとのエピソードを読んだ記憶がある。
この多田銀銅山の労働者たちは、どうだったのだろう?
金と体力と自由があれば、夕方、多田を抜け出し、大坂で夜遊びし、
朝に帰って来るなんて芸当も不可能ではない距離だ。

佐渡のような孤島でなく、生野よりずっと都市に近いことで、
何か個性的な特徴があったのだとしたら、
それを紹介して欲しい、と考えるのは私だけだろうか。


以上、ちょっとした不満でございました。

本当の所は、とても楽しんできたのです。こういう場所は好き。
坑道の中を歩いたりもできますし。
これだけ町から近くにあるのだから、
小学生の遠足の目的地として有用だろうなあ。
鉱山史や経済史などに触れる機会は、貴重ですぞ。

「悠久の館」という清潔感のある設備も作ってあるのだし、
もっともっと利用されるて然るべしと思いました。