兵庫散歩(ヤケクソ気味にはじめます)

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妙な具合になっておるようですな、大河ドラマ平清盛
視聴率が悪いとか、知事の発言とか、それに対する反応とか。
またNHKは必死に番宣をやり、関連番組も多いらしい。

困ったな。

「兵庫」については、だいぶ前から何か記事にするつもりだった。
大河ドラマに便乗するつもりではなく。
誰も注目しない兵庫を、ひっそりと記事にしたかった。
そこに大河ドラマうんぬんとの噂が伝わって来て、
神戸市が歴史館を作るとか何とかの話もあって、面倒くさいなあって。

大河に限らず、テレビドラマって実はまず見ない。
映画もほぼ見ない。
キライというよりは、見る習慣がないので。
しかし見ないと「兵庫散歩」も書けないのではないか?
そう自問すると、書きにくくなるばかりなのですが、
ドラマを私が見る可能性はゼロなので、そのまま書くしかない。


以下、かなり長くなります。
悪しからず。

つまりは、こういう話。


兵庫港大輪田の泊)は、明治維新前の日本史において、
最も大切な港の一つである。
清盛の時代や室町時代の貿易港であり、
江戸時代には西廻りの北前船の港でもあった。

しかし不思議なことに、現在、その名残はほとんどない。
同じ中世のライバル港・堺と比べると、驚くべき落差がある。
博多や長崎と比べても、同様である。
江戸期には人口数万だった兵庫の町に、全く文化が残ってないのだ。

何故、今の兵庫に歴史の雰囲気が無いのかというと、
すぐ隣の神戸港が明治以降に急速に発展したのと、
もう一つ、兵庫の町を含むこの地域が水害の地だったからだろうと思う。

神戸というと、17年前の震災のイメージが強いけど、
歴史を見ると「水害の町」だったことを忘れるべきでない。
最近は2008年の都賀川の5人死亡事故が記憶に新しい。
さらに振り返ると1938年の阪神大水害(死者616名)など、
繰り返し水害に襲われてきた町なのである。

神戸市から阪神地域にかけて、つまり六甲山の南側は、
極めて集中豪雨に弱い地域なのだ。

特に明治時代以前には、六甲山はほぼハゲ山だった。
植林で今のような保水力のある緑の山となり、
砂防工事も進めたので、かつてより水害の危険は減っているが、
明治以前には、どれだけ危険な場所だったのだろう?

瀬戸内海という特上の天然航路のほぼ端にあり、
浅くて大坂までは入れない大型船が停泊できた兵庫の港。
港としては優れた立地だけど、
すぐ後ろに急峻なハゲ山である六甲山が控えていて、
暴れ川として知られる天上川湊川がすぐ横に流れる町。

ここを拠点に巨万の富を築いた豪商もいたが、
繰り返される水害を受けて、
町に文化を積み上げようとは思えなかったのではないか。

大阪・堺市に行くと、今でも刃物鍛冶などの伝統工芸があるし、
古寺があるし、創業数百年の菓子屋があったりする。
人が集まり、富も集まれば、自然とそこに文化が生まれる。
しかし兵庫の町にはそれが無かった。

悪いのは、風化した花こう岩を岩盤とする六甲山・・・なのかな?


さて、個人的な疑問は、
この地域はいつから水害の地になったのか、という点。

六甲山がある程度緑の覆われていたら、砂防工事はされて無くても、
水害の危険性はより低かったろうと思う。
もちろんそれでも他地域よりは危なかったろうが。

ちなみに、義経の有名な鵯越のエピソードでは、
「シカが崖を降りるのを見て」となっている。
ところが、現在、六甲山系にシカはいない(と言われている)。
ハゲ山となった六甲山は、
シカやイノシシなどの大型哺乳類が住めない場所だった。
餌付けによってイノシシだけ戻って来て、今に至る。
つまり義経の頃は、シカが生息できるだけの森はあったのだろう。

一応、江戸時代に入ってから伐採が進んだと言われているが、
清盛の時代はどうだったのかな?
福原京を作るための建材や燃料などを六甲山に頼ったとすると、
植生の復元力の弱い山であるから、
早々に水害の起こりやすい状況が進んでいた可能性はある。

時代考証の堅実なNHKは、今回の大河ドラマにおいて、
どんな六甲山の遠景を映すのだろう?
興味はあるんだが、そのためにわざわざドラマを見るのは嫌だな、
とちょっと憂鬱でもありまする。


※写真は、古い名前を使った大輪田橋。