「海ちゅうのは、カミの池よりデライけ?」



 引き続き、竹内街道の話題であります。


 司馬遼太郎街道をゆく」のごく初期の竹内街道編に、
カミの池(上池)が出てきます。

普段は大阪に住んでいる少年時代の司馬遼太郎は、
夏休みなどになると母方の実家のある竹内に来ていた。
そこで矢尻拾いに没頭したりして遊んでいた。

大阪という別世界から来た遼太郎少年に、
地元の子らが尋ねるのである。

「海ちゅうのは、デライけ?」
「カミの池よりデライけ」


それに対し、「デライ」「むこうが見えん」と返事をすると、

”子供たちは大笑いし、
そんなアホな池があるもんけ、と口々にののしり、
私は大うそつきになってしまった”


このシーンが、私にはとっても印象的で、
忘れられないのです。

今回、その「カミの池(上池)」を見るのが、
竹内街道を歩く一番の目的だったとすら言えます。


 で、実際に目にした上池は・・・

イメージ 1


地図で見て分かってはいましたが、
上のエピソードから想像される姿よりもずっと小さく、
ゴミも多い普通のため池でした。
もちろん、
戦前とは池の大きさが変わっているかも知れないけど。

司馬氏も書いているように、
当時はもう現在の近鉄南大阪線が走っていた。
今なら乗り換えなし42分で大阪阿倍野橋まで行ける。

いくら奈良県には海がないと言っても、
モンゴルの少年が海を知らないのとは、
次元の異なる事象なのである。


 私は歴史や民俗が好きだ。
いろいろと本を読んだり、実際に自分で街道を歩くと、
昔の人も随分と遠くまで頻繁に旅していたのがよく分かる。

一方、上記のようなエピソードを読むと、
子供だったり、女性であったり、
移動しない人は全く移動しなかった事にも思い至る。
出身の村から一歩も出ずに
生涯を終えた人も多かったのだろう。

過去にはいろんな人たちがいた、
というのが結局のところ正当な歴史観なのだ。

この小さな池を眺めつつ、
改めて肝に銘じた次第です。


 もう一つ、考えた事がある。

電車に乗らずとも、この池からちょっと登れば、
二上山の二つの山頂に至る。
少年らが矢尻拾いをした山である。

海側から二上山が見えるのだから、
この山の展望が開けている場所があれば、
海は見えるはずではないか?

少年らが本当に海を知らなかったとすると、
それだけ空気が汚れていて視界が悪かったのかも。
昭和初期当時、日本は石炭をたくさん使っていたし、
現在の中国の大気汚染のようだったのか?


 司馬遼太郎は、当時の上池を、

山林の嵐気を映して、池心がおそろしいばかりに青く


と書いている。

現代の私は池周辺のゴミにガッカリしてしまったが、
昭和初期にタイムスリップしてここを訪れたら、
池の美しさに感動はするものの、
大気の汚さにガッカリするのかも知れない。