「東の旅・発端」の暗越奈良街道・前篇


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竹内街道に続き、
中途半端に残していた奈良街道も歩きました。

ほぼ一直線で約35キロ。

途中、生駒山系内の暗峠(くらがりとうげ)
標高約450mを越えるので、
暗越とも呼ばれる道であります。


今回の記事は前篇で、
昨年の秋に歩きました。

正直なところ、街道探訪としての面白さは薄かった。
大阪市東大阪市ですから、
ゴミゴミしてて街道の風情なんてほぼ残ってません。

しかし不思議なもので、
4か月前を振り返って写真を見ていると、
つまらなかった区間の記憶は薄れています。
撮っておいた神社の写真の記憶を繋げると、
あたかも江戸時代を歩いてきたかのような気分に。

記憶を捻じ曲げるのはよくないのでしょうが、
こういった捻じ曲げ方は趣があってよろしいようです。


さて、竹内街道は、蘇我氏を思いつつ歩きました。
去年やった西国街道は秀吉の中国大返しを、

では、奈良街道は・・・

奈良時代から使われていたらしいですが、
やっぱり江戸時代に大坂庶民が通った伊勢参り
思いをはせて歩くと楽しさが倍増します。
戦いの行程を確かめるより、
お伊勢さんの旅を実体験する方がウキウキします。

そして何より、
上方落語の基礎中の基礎である「東の旅・発端」は、
ちょうどこの区間です。
落語では早口でよく聞き取れぬ所でもありますが、
実際に歩いてから聞き返すと、
意味が分かるようになってオモシロイ!

↓参照




基点・高麗橋
ここから出発。
落語では安堂寺橋から出てますね。
彼らより約1キロ長い旅のはじめです。

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玉造の二軒茶屋の跡の碑。
落語では、ここで見送りの連中と別れの盃を酌み交わし、
改めて二人連れの旅のはじまりとなります。

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1806年に建てられた道標「左 なら いせ 道」。
多くの伊勢参りさんが見たことでしょう。
ただ、場所が移動していて方向も間違ってます。

ナポレオンが暴れ回ってた時代のものかぁ!
「だから何?」とは問わないで下さいませ。

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この辺りで名物の深江笠を買うのが普通だった、
と落語にもあります。

検索をすると、深江周辺は低湿地帯で、
古代から良質の菅草が豊かに自生していた、とか。
今は昔、であります。

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天神社。
御厨にあります。
名前からして、豊かな土地だったのだろうと想像できます。
これも、今は昔。

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1831年に建てられた菱江のおかげ燈籠。
調べると、良寛さまが亡くなった年でした。
この奈良街道を通られた事はあったんやろか?

ずっと東大阪らしい雑然とした町中を歩くのですが、
古社やこういった燈籠はオアシスのように感じられました。

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高校ラグビーの聖地・花園中央公園の脇を抜け、
梅林で有名な枚岡神社に。
落語の二人連れさんは、この神社にも寄ってないんですよねえ。
江戸時代にはあまり有名ではなかったのかな?

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ここから、きつい登りの暗越が始まります。
現代の街道歩きという点では、
一気に楽しさが増す区間でもあります。
それはまた後篇で。