ネイティブアメリカンとコケ




昨日記事にした「コケの自然誌」の中で、
ネイティブアメリカンとコケ」の章が、
個人的には非常に気になったので、
改めて。

ほとんど抜き書き記事になってしまいますが、
悪しからず。


ネイティブアメリカンのものの考え方では、
すべての生き物にはそれぞれの役割があるとされる。

生き物はそれぞれ、特有の才能と知恵、魂、物語を
生まれながらにして持っている。
(後略)


ここまでは、私にもよく分かるのです。
しかし、次の考え方には、
正直驚かされました。


こうした賜にはまた、
それを手段として互いのために尽くす責任がともなっている。

歌という賜を与えられたモリツグミには、
夕べのお祈りをさえずる責任がある。

カエデは甘い樹液という賜と一緒に、
空腹の季節に人々に
その賜を分け与える責任を与えられている。


私は一人間として、
自然に対して人間は何かしらの責任を持つ、
と考えています。

でも、生き物たちの方も、「責任がある」なんて、
考えた事はなかった。

生き物同士の関係に生じる責任なら分かる。
花は虫に責任を持ち、
虫は花に責任を持つというのは、
共進化の結果などから多々生じている。

しかし、生き物たちの人間に対しての責任とは!

現時点での私の自然の知識において、
100%納得できる考え方では無いけれど、
今後、こういった視点も自分に取り入れていきたいです。


昔ながらの考え方によれば、
ある植物に与えられている特有の賜を知る方法の一つは、
その現れ方と消え方に敏感になることだ。

すべての植物を、
意志を持った生き物と見なす
ネイティブアメリカンの世界観にしたがって、
植物は、それが必要とされているときと場所にやってくる、
とされている。

自分の役割を果たすことができる場所を探し出すのだ。


この後に書かれているエピソード。
彼女の友人の家の生け垣に、
クマツヅラが初めて生えて来た。
その夏、友人の義理の娘が肝臓の病気になった。
クマツヅラは、肝臓の薬なのだそうだ。

これを偶然とみなすのか、
何かしらの必然というか当然のことと捉えるのか。
自然観と人生観において、
大きな岐路になりそうな気がする。

そう言えば、私が時々歩く山道の入り口に、
クマツヅラが生えているぞ。
日本のも同じ様に薬になるのか知らないが、
やっぱり何か意味があったのかな?