司馬遼太郎と宝塚市


2001年9月刊の「司馬遼太郎が考えたこと1」に、
「六甲山」という文章が掲載されている。
昭和36年7月に書かれたものです。

その前半部分を転載します。


(5行分略)
そういう低山登山家が、中学四年の正月に六甲で遭難しかけた。
拝賀式をおえると、急に低山にのぼりたくなり、
級友四人をさそって、その足で六甲へ出かけた。
「おれ、朝めし食わずにきたがな」
「どうせ、山の上に茶店でもあるやろ」

大汗をかいて山頂までのぼると、
元旦に六甲にのぼるばかはいないとみえて、茶店は木戸をおろしていた。
と泣きだしやがった男がある。
たべものがないとわかると、急に心細くなったにちがいない。
下駄、というアダナの小男で、いま三菱の桂工場で、
有能な機械技師になっているという。

腹がへると、歩けなくなった。
私へのあてつけに、這いながら行くやつもあった。
「お前、なにを食うとる」
私が驚いてその男にきくと、男は、口を開けてみせた。
ミカンの皮がいっぱい詰まっていた。むろん道でひろったものだ。

「では、近道をしておりよう」

それがわるかったのである。
人生のどういう場合でも、あせって近道をすると、
ろくな結果にはならない。
われわれは裏六甲にまよいこみ、道かと思って進むと断崖だったり、
消えていたりした。

日が暮れ、体力がつきかけたころ、
断崖の下に谷川が流れているのを発見した。

「この川床を歩こう」

川は、かならずふもとへ流れている。
川の流域に人家が密集するのは、人文地理学の通念である。
われわれは、川をつたっておもわぬ町に出た。

宝塚市だった。

(後略。改行・改段落は園橋が勝手にやった)


こういう文章に、私は反応してしまうんですねえ。

まず、ここにはやってはいけない事が書かれている。
山で道に迷って、川や谷を歩いてはいけないはず。
尾根を頼りにするのが正解じゃなかったっけ?
ま、この時は問題なかったようですが、それは結果論だろう。

もう一つ、間違いとは言えないけれど、
宝塚市」に下りたと書いてあるが、市制施行は戦後である。
イチャモンですけどね。


さて、宝塚市に居住して、山歩きも好きな人間として、
ではいったい若き日の彼は何川を歩いて、何処に出たのか、
を推理して楽しませてもらいました。
見慣れた地図をじっくりと見ながら。

その推理の過程はローカルネタ過ぎて書かないけれど、
結論は、恐らく私に最も馴染みのある川だ、となりました。
それが妙に嬉しかったです。

全国どこでも同じですが、
この辺りの川も戦後大きく変えられてしまっています。
以前はどんな川だったのかなって、
想像が膨らんで有意義な過去への旅をさせてもらいましたよお。