聖なる山とは
虚空蔵山は、名前から分かるように、宗教的な山だ。
寺伝によると、聖徳太子の夢うんぬんで始まるらしく、
なかなか大きな寺であったそうだが、
明智光秀により焼亡したのだとか。
今は、このお堂があるのみ。
最近、不思議だなって思いつつ、山歩きをしている。
ここ北摂には、数多くの低山がある。
宗教的な意味を強く持つ山がある一方、
小さな祠がある程度の山、それすら無い山も数多い。
その違いは何なのだろう?
特に、この虚空蔵山は不思議な気がしました。
丹波立杭焼の山里に降り、
振り返って見た山容(昨日の写真)には、
鈍い私もちょっとした感動を覚えました。
感受性の強い方なら、神聖を感じるかも。
ここで暮らした陶工さんたちが、
信仰の対象にするのは自然な気もします。
でも、お堂があるのは、山の反対側。
陶器うんぬんは、それほど関係なさそう。
ってことは、何故この山が・・・分かりません、私には。
宗教って、本当にナゾが多いです。
特に聖なるものを感じる力の弱い人間にとっては。
ちなみに、私にとって一番不思議なのは、高野山。
空海さん、何故あの山???
最澄は、あんな分かりやすい山を拠点にしたのになあ。
そんな事を考えながら歩くと、疲れも和らぐようで。